Cnestのブログ

インターナショナルな家によるグローバルでアンビシャスな生活

平等

国全体にとって一人一人の能力を最大限生かした状態がベストだとすると、個々人の能力に合わせた教育が必要だと思う。

この前、小学生が習っていない漢字を使うなと言われて、自分の名前の漢字を書けるのにひらがなで書いているとかいうのをみて、極めて不自然に思った。自分も算数の授業の時にxを使って習っていない解き方をするなと言われた。そして、ルールを守ることに固執して、そのルールを疑問に思わない子どもとかを見ると少し残念に思った。ルールが何のためにあるのか、自分なりにでも解釈しないとただの従順な大人になって、世の中に価値の生み出せない、機械に代替される人になってしまうからだ。自分は習ってっていないというだけで小学生の能力を抑圧するのではなく、個々人のユニークさを磨いて、突き詰めたものを持った人をそだてる教育が必要だと思う。ただ、束縛や型があるからこそ個人のユニークさを発揮できるという面はもちろんあるので、自分は現状の教育を否定したいわけではなく、現状の教育の枠からはみ出た子を否定しないことが大切だと考える。

自分は、結果の平等が果たされないのは、社会のニーズにこたえられない人が対価をもらえないのは当然だと思うので、ある程度は仕方ないと思う。しかし、持たざる者と持てる者の格差が広がりすぎると、社会全体にとって大きなリスクなので、持たざる者をいかに減らすかということが大事でしょ。逆に、機会の平等、特に教育の機会の平等は、どのような環境に生まれた人でも何かしらの才能をもっているだろうので、そこを有効活用するためにも必要だ。そう考えると、一人ひとりの子どもに合わせた教育をするためにも、教育の現場においては学校の先生の事務負担を減らし、人数を増加する、そしてそうなると学費も上がるのが自然ではないか。そして、単に学費を上げると貧困層にしわよせが来るので、所得に応じて、細かく学費を変えるのがよい。同じ教育を受けているのに、なぜ学費が違うのかという意見もあるかもしれないが、それこそが間違った平等の概念で、持てる富は社会に還元する、それこそが今後必要な多様性のある社会の形成につながってくる考えだ。

日本は不景気だとか、失われた20年だといわれているが、日本のGDPは0.5%~1%ずつ増えていて、震災などを除いてほとんどさがってはいないさがってはいない。実際2000万以上の収入がある人は、1985年は5万人程度だが、2013年に20万人を突破した。一方日本の平均年収は30代男性を例に挙げると平成9年に491万円、平成24年に430万まで下がっている。相対的貧困率(可処分所得が中央値の半分未満の人の割合)は、1985年の12.0%から2012年の16.1%へ上昇している。中間層以上とそれ未満が増えている現状を受け入れて、持てる層の持つお金をいかに世の中の発展のために引き出すかかんがえていかないといけない。