Cnestのブログ

インターナショナルな家によるグローバルでアンビシャスな生活

浅さ

日本の未来を考えるのは重たいので、先に普段考えている「浅さ」について整理します。人と会って話すとき、私はその人を直感的に浅いなと思ってしまう瞬間があります。その浅さとはいったい何なのか、個人的に考えてみたいと思います。

 

「浅さ」とは頭の良しあしではない。

頭の良いとはここでは簡潔に学校の勉強ができると定義しておきますが、高偏差値の人と低偏差値の人の間に私が浅いと感じる相関関係はありません。よって、頭が悪い人を浅いと思っているわけではないと思います。

 

「浅さ」とは自分の好き嫌いではない。

浅いと感じる人の中でも仲良くしている人はいますし、浅いから関わりたくないとかそういうわけでもありません。嫌いな人でも一目置く人はいますし、好き嫌いでもなさそうです。

 

「浅さ」とは深堀りできていない、表面的な感覚

浅いと感じるのは、相手と自分が踏み込めていないなという時です。私はその人自身が浅いのではないかと思ってしまいましたが、むしろ会話がふわふわしている感じを「浅い」と表現していることに気づきました。これは自分の言葉を使えていない状態で、相手に必要以上に気を使いすぎているときなどに感じます。また会話の前提を共有できていないときにもこのように感じます。もう少し詳細に見てみます。

 

・相手に気を使いすぎているとき

目上の人などに必要以上に気を使っているときなどに感じます。例えば必要以上にかしこまって、何を言っても、ありがとうございましたとか大変失礼いたしましたと答えているのは逆に失礼でもないかと思います。相手がぼけたときにはつっこむ、相手に対し、真摯に思っていることをこたえるのが礼儀だと私は考えています。目上とはいえ、率直に交流したいでしょうし、なんでも参考になりますとか答えて流すのも深い関係を築けません。

なぜこのようになるのか?答えは自分に自信がないことにあると考えました。目上の人を無条件で自分よりすべてが勝っていると感じてしまう、嫌われるのがこわい、自分をさらけだすのがいやだ、すべて自分に自信を持っていないからでしょう。不安感からくるふわふわとした浅さだと思われます。

 

・論理がかみ合わないとき

自分がこの話をしようと思っているときに話がいったりきたりするときに感じます。相手の質問がバラバラでいろいろな方面に展開したりすると何を考えているのかよくわからず疲れてしまいます。

なぜ論理的でないのかは、これも頭の良しあしではなくどちらかというと、自己中心的なメンタルに起因するのではないかと感じます。

論理的とは、相手にわかりやすく伝えるよう整理するということだとして考えると、自分のしゃべりたいことを一方的にしゃべる、聞きたいことを反射的に聞くという状態が非論理的な状態です。そしてこの表現スタイルが自己中心的だと感じます。

他にも~をやりたいと唱える人がいますが、現時点で何もやっていないと~をやりたいのは本当かな?やりたいことならすぐに始めているはずなのに、やりたいという自分によっているだけなのではないかと感じてしまいます。私は、やりたいことなら結果はともあれすぐに始めているはずだという前提を有しているので、~やりたいといって実行に移していないと、一貫性がないなと思ってしまいます。

こうした、前提を共有していない会話においても浅さを感じてしまいます。

 

さて、自分が浅いなと思うこの状態は、相手から逆に浅いなと思われる状態も逆に秘めているわけです。逆に自信があって、一貫した論理がある人は、たとえ自分と意見が違っても面白い人だな、賢い人だな、と感じてしまいます。自分に自信をもつということと、論理性を身に着けることはどういう方法で身につくのかはわかりませんが、身に着けておけば役に立つでしょう。