Cnestのブログ

インターナショナルな家によるグローバルでアンビシャスな生活

話していて面白い人

面白い人を考える。 

 

まず自分の身近な人。相手のことをよく知ってるし、気を許せるため、たとえ客観的に面白くなくても、話していて楽しくなる。仲良い友達や家族や恋人とかが当てはまる。

 

次に身内でない場合は

わかりやすい特徴がある人。 例えば、コアな特長の部分でロジカルに考えられるとか逆に熱血とかもそうだし、もう少し表層的な部分で、海外経験豊富で、海外不動産についてすごく詳しいとかダンスがうまい、音感があって楽器が弾けるとか、わかりやすい武器を持っている人もそう。わかりやすい人ほど、人はコミュニケーションが取りやすく面白いと感じるし、あるわかりやすい特徴があると初対面でも話題に詰まらず仲良くなりやすい。 

 

また、現時点で特徴がない場合は

ビジョンや志がある人。 人生に目的意識やストーリーがある人は物語を読んでいるかのようで面白い。〜を目指しているだとか、〜を大事にしているというのを聞くと人は応援したくなる。

 

人に、自分に利益をもたらしている存在であると認識させるには、相手のマインドマップの中で自分がどこに位置付けられているか、そしてどこに位置されたいのかいっぺん考えてみると良いであろう。

 

 

 

 

 

 

 

入院した

入院といっても病気ではなく、医薬品認可のための事前テストに参加したわけで

事前の健康診断をパスすれば参加できて

1日目の採血と検尿を突破すれば本参加が決定する。

午前9時に薬を飲んだ後は、二日目の午前の15分間隔の採血と午後の1時間間隔の採血を行いあとは自由。

漫画を読んだり、本を読んだり、PCを使ったりして過ごす。無線LANがあるのは快適であった。ごはんはコンビニ弁当で昼、夜支給。 二泊三日×2回で7万円の協力費がもらえる。 自分は色々動きたいタイプで、寝て起きて血を抜かれるサイクルでお金をもらうっていうのは少し退屈でつらいけど金がなく時間だけあったのでしょうがない。自分が健康体だと再認識できたのと、注射の恐怖感を克服できたっぽいのは収穫だった。あとは主体的に働いてお金を稼ぎたいという認識も持てた。

読書とは

読書の目的は何か? また本をどう読むべきか?

 そもそも読書とは文字を読む行為であり、あくまで手段である。そして書籍とは手段に用いる道具である。読書自体に良いことだとか、行動するほうが大事だとか価値判断を持ち込むのは間違っていて、目的次第で良くも悪くもなる。 本という道具の用い方は読み手次第だ。 したがって目的を考える必要がある。

一口に本といっても、専門書や新書といったノンフィクションと、小説や物語のフィクションの2つパターンがあると思う。

新書は

1 知識の獲得のため

2 知識の使い方を学ぶため   と考えられる。

 知識とは何か(what)を知っているということだ。そして、知識は考えても自分で生み出せないから、学ぶしかない。ただ事実としてあるものであるため、最良で明確な答えが存在する。(現在答えが判明しているかはさておき) したがって、誰でも到達できるもので、再現可能性もある。

一方知識の使い方とは、Howにあたり、人によって異なる。どう使うかによって、何を作るか、何を生み出せるかが異なってくる。法律でいうと条文や判例が知識にあたり、その法を用いてどう事例を処理するかが知識の使い方だ。使い方は色々で最善はあってもひとつに定まらないことが多い。

ここで大事なのは、知識の使い方を知識のように扱い「答え」を示す本があることだ。知識の使い方をマニュアル化して答えとして掲示する本は思考を揺さぶらない。そもそも答えが分かるということと考えるということは違う。考えるとは知識を用いて、新たな知見を生み出すことなので、その使いかたをマニュアル化してそれを覚えるということを繰り返しても思考力は身につかない。

 読むときに大事なのは知識よりも考えることだ。知識は人と差別化できないし簡単に忘れてしまうが、考え方は簡単には忘れない。そして考えるときは答えを安易に求めず、考えた上で必要な知識があればそのために読んで知識を得るというのが最良であろう。

 書物ばかり乱読して、知識をたくさん得ても人の受け売りに過ぎない。考え方をたくさん覚えてもそれは自分の思想とはいえない。雑然とした知識を整理し、自身のオリジナリティーを出すには、読む前に自分がどれだけ知っているのか整理し、なんらかの答えも用意しておくべきだ。

次に物語や小説は

1 共感するため

2 安心を得るため    と考える。

物語上の人物がなぜそうしたのかなどをを考え、共感を得る。自分の知りえなかった世界にフィクションの力で踏み込み、人々はより他者に共感できるようになる。そうしたイマジネーションの力が物語にはあると思う。共感や安心は人にとって困難な面が大きいほど実現できた時には大きな快楽がある。もちろんもやもやが大きすぎると低評価になるが、自分の知らない世界への想像力をひろげるという観点から考えると、もやもやが大きいほど解消できた時に養われる想像力や快楽は大きく、面白いと人は感じる。これを繰り返し、自身が許容できるもやもやが大きくなるほど、想像力は豊かになり、人は優しくなれるだろう。

結論をいうと1,2のどちらの本も目的を考えると読む量より、考えて、想像力を駆使してじっくり読むべきと思う。すぐわかるものは答えが書いてあって自分の言葉を作り上げることができない。また忘れる速度も極めて早い。オリジナリティーが大事だという考えがあり、自分の思考を作り上げたいのであれば、仮説を持ってその検証のために読むというやり方が良いであろう。 

映画 私はダニエルブレイク

映画 私はダニエルブレイクを見た。 

あらすじは以下の通りである。

 映画は大工一筋の主人公が、心臓疾患で職をやめることになり、失業手当の受給のために役所を訪れるシーンから始まる。舞台のイギリスは緊縮財政下にあり、役所での給付手続きは民間業者による機械的な点数づけで行われていた。主人公は役所との不親切で無意味に感じるやりとりにいらだちを覚えながら、受給に向けて交渉を続ける。

同じ頃、手当の申請に訪れていたシングルマザーの若い大学生も、理不尽な手続きのうえ申請を却下され、仕事も手当もない状態で苦しんでいた。主人公はシングルマザーの女性の境遇に同情し、自らも仕事がないながらも、その女性を援助しつつ、受給に向けて行動を起こしていく。

この映画では、一生懸命に生きようと努力する人々ですら、機械的に切り捨て最低限の援助も与えない役所の姿勢を、主人公の隣人愛と対比的に描き批判していた。

役所は、ルールの下で動き、どんな例外も一切認めない。

 医師から心臓疾患で仕事を止められていている主人公でも、就労可能と認定されたために、求職活動を要求する。インターネットを知らない主人公は履歴書を配って歩くが、役所は、すべての手続きに証明書を必要とし、インターネットで求職活動を行うよう問い詰める。しかし、役所はインターネットの使い方を公平性の観点から教えないため、主人公は役所が求める求職活動はできない。

役所は間違った数値目標をたて、その目標を達成することに固執してしていた。 その結果、この映画の役所のように相手の目線に立てない対応になってしまう。本来失業手当の給付者を減らすためには、失業者に対し、職を増やして対応すべきであったのだが、即効性を重視し、求職活動の数を増やすことが目標となっていた。職自体が少ないのに、失業者へ求職活動の数を要求することは、役所も失業者も疲弊をもたらすだけである。

また効率の重視を追求する姿勢も鮮明であった。

すべてをオンライン上でおこなうことは手間の削減につながるが、そこからはじき出される人も生まれる。しかし弾きだされる人を支援することは費用対効果に合わず、行おうとしない。

役所では、圧倒的に人手が足りず、相手のことを考える余裕がない様子が描かれていた。 緊縮財政で余裕がない中で、数値目標を立て合理化を追求した結果、相手の顔が見えなくなった。

そうした状況を批判的に描くことで、監督はどんな人間でも名前を持つ人間だと、人間の尊厳を表そうとしていた。

なお、日本でも似たような事例が見られる。

goo.gl

分かりやすさ

分かりやすい言葉は相手の思考コストを消費しない言葉だ

シンプルで、伝えたい一貫したメッセージが存在する。

 

ただ分かりやすい言葉は正しいとも限らないし、重要なことであるとも限らない。

 

分かりやすくする過程において、正確さを犠牲にすることもあろう。

だが、嘘やデタラメはもちろん良くないものの、情報を捨象して分かりやすさを追求すること自体は正しい行為だ。

コミュニケーションは相手ありきでつたわるかどうかが勝負だからだ。

よって発信する時は、分かりやすさを追求しつつ、受け取る時は分かりやすさをうのみにしない姿勢を身につける必要がある。

まじめとは何か

就活中、「まじめ」で生きてきた人間は40社、50社受ける。彼らは「絶対内定」のような本を読み、セミナーに通い、有名企業の内定を取るべく努力する。しかし、そのやみくもな姿勢からは、有名企業への就職をゴールと考えるのみで、主体的に自分の適正を考え、自分の人生をコントロールしようとする姿勢が見えない。本当に自分のやりたいことや得意なことを「まじめ」に考えれば、消耗する体力や時間を考慮して何十社も受ける発想には至らないであろう。

主体的に生きるとは自分の主観にのっとってやりたいことに取り組むということである。主体的に生きるからこそ、自分の人生に責任を持て、納得を得られる。事なかれ主義で、客観的、中立的であろうとするほど、軸がないゆえにどっちつかずの態度をとり、知らぬうちにその時の多数の空気に流されてしまう。マスコミがいい例で、相手に安全な位置から質問をし、自分では客観性を装った意見しか述べない。それだと読者に今後進むべき道をはっきりと示せず、単なる情報伝達と、その時々によるただの感想に終始し、結果的に大勢の意見をダイレクトに拡散してしまうという事態も引き起こす。

教育面でも、長いものに巻かれ正解を探す心理を映し出している。そして今まで個性を認めない教育が、こうした正解主義や事なかれ主義を生んだ、これからは個性尊重だと唱えても、やり方がわからないゆえに結局、個性の両論併記で事なかれ主義にしかならなかった。お互いの個性をぶつけ合った先に生まれる結論こそが納得のいくものであるはずなので、正しく議論する能力が今重要な能力かもしれない。

まじめとはなにか、それは自分の大事にしていることにこだわれる人間であろう。こだわりだすと、自分の思う水準より下のものに腹が立ったり、周りから批判を浴びたりするが、それでもこだわれることこそまじめさのあかしだ。周りに流され、自分で考えて意見をもったりしない人はまじめというより、思考停止しているふまじめな人にしか見えない。

 

 

忘れる

人は忘れる。

忘れることで脳内が整理される。

全ての情報はインプット後何もしないと忘れるが、何度かアウトプットすることで

重要な情報と認識されて脳内に定着する。

アウトプットしない情報はどうでもいいと判断されて、忘却する。

重要で忘れたくないのにどうでもいいと判断されて忘れることもある。

重要かつ好きなので無意識に思い返しているような情報はほっておいても忘れないが、重要だが好きではない情報はアウトプットを意識してしないとどうでもいいと判断されて忘れてしまう。

つまりインプットとアウトプットの間で脳内に起きているプロセスに、情報の重要度はあまり関係ない。

自分で立てた目標や目的を書き記すのはなぜか

定期的に見かえすことで忘れないために

日々の記録をかきのこすのはなぜか

着地点を見据えたうえで、振り返ることができるように

時間の経過による忘却をくぐり抜けた情報は自分にとって価値があるものだというのは真だが、価値のある情報は忘却を乗り越えられるというのは真ではない。

ここ一、二週間とかを振り返っていると大事なことを忘れていたなとか、立てた目標とかを忘れてしまっていたりとかしてるので今の自分に何が大事で何が大事でないか整理する作業が必要と感じました。