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Cnestのブログ

インターナショナルな家によるグローバルでアンビシャスな生活

ブレないこと

今までの人生ふらふらと色々なことをやってきた

スポーツではサッカー、バレー、ホッケーと色々とやらせてもらったし、

学業の面でも文系なのに数3や物理をやり、大学に入ってからも理系に混じって自然科学実験を取っていたりした。法学部だけれども、法律と政治で何度も興味が揺れ動いた。

色んなことをやっている中で、結果が出せたことも出せないこともあった。サッカーやバレーをやっていた頃はチームが何度も分裂したし、大学生活で一つやりきって結果を出したいと思って始めたホッケーは対戦相手が全くいないこと、ゆるいことに勝負事が好きな自分にはうまく打ち込みきれなかった。怠惰な性格だが勉強は昔から得意であり、小中高と成績はそこそこであったが、進路への思いの弱さから大学受験は失敗し、大学に入ってからはそこまで学業に重きは置けていない。

自分がふらふらと人生経験をした中で気付いたのは、ブレることなく何かに打ち込むことはやはり大切だということだ。そして、ここでいうブレないとは、ふらふら手をださないでなく、色んなことを経験する上でも自分の中に軸を持って、その経験を集中してやりきるという意味だ。

振り返ってみると、様々な体験をして自信をつけたことで今の自分がいる。うまくいったかどうかや取り組んだ数の大小よりも、その時その時心底打ち込めたかどうかが自信に繋がっている。打ち込めるかどうかはそこにこうしたいという思いがあるかどうかにかかっている

人、相手を尊重すること

自分の大事だと思うことを大事にして、自分の行動に責任を持つこと

を大切にしつつ

自分のやることに思いを持って

10年後や20年後にあの頃は最高だったと言えるような時間を過ごしたい。

 

2017年の抱負で人にやさしくとしたが、どんな相手でもお互い対等と考えて言いづらいことでも言うこと、相手の心理を想像し変化に敏感になることが優しさであり、尊重する姿勢だと思う。だから輪に入れていない人に気づけば放置せず誘導したいし、言いにくいことはしっかり言いたいし、言われたくないことも受け入れたい。

そして、面白いと思うことはポジティブに出来るやろってスタンスでどんどんやっていきたいし、どんどん手を広げたい。

今までのうまくいかんかったことも別に後悔もないし、全力でやってうまくいかんかったり、人に迷惑かけたら胸張って謝ればいいんやし

 

 

 

平等

国全体にとって一人一人の能力を最大限生かした状態がベストだとすると、個々人の能力に合わせた教育が必要だと思う。

この前、小学生が習っていない漢字を使うなと言われて、自分の名前の漢字を書けるのにひらがなで書いているとかいうのをみて、極めて不自然に思った。自分も算数の授業の時にxを使って習っていない解き方をするなと言われた。そして、ルールを守ることに固執して、そのルールを疑問に思わない子どもとかを見ると少し残念に思った。ルールが何のためにあるのか、自分なりにでも解釈しないとただの従順な大人になって、世の中に価値の生み出せない、機械に代替される人になってしまうからだ。自分は習ってっていないというだけで小学生の能力を抑圧するのではなく、個々人のユニークさを磨いて、突き詰めたものを持った人をそだてる教育が必要だと思う。ただ、束縛や型があるからこそ個人のユニークさを発揮できるという面はもちろんあるので、自分は現状の教育を否定したいわけではなく、現状の教育の枠からはみ出た子を否定しないことが大切だと考える。

自分は、結果の平等が果たされないのは、社会のニーズにこたえられない人が対価をもらえないのは当然だと思うので、ある程度は仕方ないと思う。しかし、持たざる者と持てる者の格差が広がりすぎると、社会全体にとって大きなリスクなので、持たざる者をいかに減らすかということが大事でしょ。逆に、機会の平等、特に教育の機会の平等は、どのような環境に生まれた人でも何かしらの才能をもっているだろうので、そこを有効活用するためにも必要だ。そう考えると、一人ひとりの子どもに合わせた教育をするためにも、教育の現場においては学校の先生の事務負担を減らし、人数を増加する、そしてそうなると学費も上がるのが自然ではないか。そして、単に学費を上げると貧困層にしわよせが来るので、所得に応じて、細かく学費を変えるのがよい。同じ教育を受けているのに、なぜ学費が違うのかという意見もあるかもしれないが、それこそが間違った平等の概念で、持てる富は社会に還元する、それこそが今後必要な多様性のある社会の形成につながってくる考えだ。

日本は不景気だとか、失われた20年だといわれているが、日本のGDPは0.5%~1%ずつ増えていて、震災などを除いてほとんどさがってはいないさがってはいない。実際2000万以上の収入がある人は、1985年は5万人程度だが、2013年に20万人を突破した。一方日本の平均年収は30代男性を例に挙げると平成9年に491万円、平成24年に430万まで下がっている。相対的貧困率(可処分所得が中央値の半分未満の人の割合)は、1985年の12.0%から2012年の16.1%へ上昇している。中間層以上とそれ未満が増えている現状を受け入れて、持てる層の持つお金をいかに世の中の発展のために引き出すかかんがえていかないといけない。

いじめ

金銭要求「いじめ認定困難」=教育長が見解、原発避難―横浜 (時事通信) - Yahoo!ニュース

中華料理屋のおやじと住職

ここ一週間で中華料理屋のおやじとお寺の住職と飯を食べる機会があった。

2人とも話好きで聞き役一方に回ったのだが、聞いているだけでも苦にならないような感心する話であった。2人の話を聞いて感じたのが、自分で決定権を持って仕事を回しているというプライドだ。中華屋のおやじは半世紀間一件の店を守り続けていたことに誇りを持っていたし、住職も誰にでもできる仕事かもしれないがほとんどの人がやろうとしない仕事で、人の死と向き合う大切な仕事だと誇りを持っていた。両者とも大きく仕事を拡大することができなかったと謙遜しつつも、店や寺をつぶさず、自分で裁量を持ってここまでやってきたことに自信を持っていた。中華屋は90分飲み放題6品付き1500円という破格の値段で、90分を過ぎた後もおやじの裁量で飲めたりする独特の店だ。お世話になった寺も葬式代は相手の言い値で決めるという独特のスタンスをとっていて、どちらも経営が理にかなったものとはいいがたい。だが、人と向き合ってきたことでこれまで信頼が蓄積されてきてこれまで生きてこれたのであろう。中華屋のおやじは誰にも気を遣わずはっきりものを言う点がかえって信用できるし、住職は、突然訪れた僕に、外食をふるまってくれ、ゴマ豆腐の作り方を教え、寝る場所まで提供してくれるという点で徳を感じた。

その寺では、坐禅を組ませてもらったが、住職は、無とは自分の体からこうしたいというベクトルが出ていないニュートラルな自分の原点のような状態だと教えてくれた。意識して動作をしないという点が重要で、背筋を伸ばすでもなく、丸めるでもなく、眠るでもなくはっきりするでもなく、力を抜いて、素の自分を見つめる。考え事をしてしまっても、その考え事の進む先へ身を任せてしまって、考えが切り替わるタイミングで無を感じる。こうした無になることは自分をコントロールするうえで大切なことだと思った。なぜなら、現代はニュースが氾濫していて、触れる機会も多いためつい集中力が欠けてしまい、自分自身を見失ってしまうことがあるからだ。本質的でない部分で悩んでしまったり、意味もない考え事でエネルギーを浪費してしまうので、禅を組んでフラットな自分に戻るのは大切だと感じた。時間や情報から自分を切り離した非日常な時間、それはやるべきことに追われてしまう今だからこそ、明確にやらないということを徹底できる時間だという上で、よい体験で頭がすっきりとした。

人の縁はどこでつながってくるかわからないし、何が仕事につながるかもわからない。住職と僕が知り合ったきっかけも、元をたどれば住職の妹と僕の大学の留学生のつながりからだと聞いた。 自分は意味もなく人と会うことは極力セーブしていきたい性分だが、こうしてお世話になった人や大事な人とのつながりは忘れずにしていきたい。

2017年の抱負

 抱負を考えてもすぐ忘れてしまうので、書き残す。進路を考えなきゃいけない時期なので、どういう人になりたいかをからめながら。

まず人生をいかに幸せに生きるか考えると、幸せとは何かという問題にぶち当たる。

自分の場合はお金とか地位ではなく、自分の人生を自分でコントロールできている状態が幸せだと感じる。コントロールできている状態とは、何のために働いているのかを理解し、何のために学んでいるのか理解できている状態だ。そして、周りの人、家族や仲間を大切にしながら生活できる余裕のある状態だ。

そのためには、希少性の高いスキルをもって、他人から必要とされる人にならないと、人の言いなりとして生きていく以外の選択肢がなくなってしまい、コントロール権をうしなってしまう。

社会に対する価値という結果を出せるようになるために、まずソフト面で4つ抱負をもつ。

 得意なこと

  • 人にやさしく自分に謙虚に   他人がどうしてほしいか、何を求めているか想像力を持つ。自分は弱く、何も知らないと認めて、失敗パターンを分析する つい人に甘くなりすぎるとか、厳しくなりすぎるとかがあるが、全部その相手の気持ちを考えれば、適切な行動が伴うはず。
  • オープンな心でチャレンジ   コミュニケーションを良くとり、迷ったらやってみる。失敗にビビらず切り替えをはっきりする。 

苦手なこと

  • 集中してあきらめずしつこく  投げ出さず、責任感をもってやりきる。やりきるために感情的になったりせず、自然体で無理せず続ける
  • 具体的でわかりやすく話す   数字や事実や根拠に基づいて話すことで、人柄や信頼度に頼らなくても、言葉に説得力が持てるようにする。

 

 これからの10年は仲間を増やし、強敵に挑み、挫折し、それでも頑張りの繰り返しになる。そんな時に不平不満を言ったり、周りに流されたりせずやれるか、そのために価値を生み出して他人から信頼を勝ち得るかというのがカギになる。

これから、進路を決めなくてはいけないが、将来的に自分の力で生きていけるようなスキルを身に着けられることを優先にまず考えたい。

理念的な抱負になってしまったので、次は、4つの抱負をもとに具体的で測定可能な目標を立ててたい。

頑張らないことを頑張る

美しいデザインとは余計なものが削り取られているものであるし、スポーツ選手の洗練されたフォームはうまく力が抜けている。

力とは何か?物事を取り組むためのエネルギーだとすると、そのエネルギーが分散している状態はもちろん好ましくない。

自分の好みとして好きなサッカー選手は遠藤で好きな芸能人はリリー・フランキーであるというのはうまく力を抜いて最大限に能力を引き出せていると感じるからだ。精神論的なものは最後の最後で持ち出すべきで、なおかつ人に見せるものでもないと思う。精神論を語る時の高揚感は危険だと思うからだ。

頑張ろうとしすぎたり、考えすぎたり、緊張したりすると、余計な力が入って、心が乱れる。口で本気を語る人、気持ちの上だけで本気な人には近づきたくない。心を熱くするとテンションが盛り上がって気持ちよくなるかもしれないが、何か不自然で違和感を感じる。何か視線が自分の内にばかり向かっていて、向かうべき対象に目を向けていない、そんな不誠実さを感じてしまう。

まっすぐに対象を捉えて、力を出し切る、そしてその力を出し切る上で、何をやらないか、どこで力を抜くかが大事だと思う。

頑張っている人を批判するな、外野から騒ぐなという声もあるが、別に全力を出し切った時に現れる無様な姿が笑われているのではない。おそらく力の出し方のおかしさにこっけいさがあるのだろう。もちろん自分を解放して、ダサくても一生懸命頑張れるというのは良さがあるし、力を抜くのが得意な人は力を出す人のなりふり構わない覚悟を見習い、力を出すのが得意な人は脱力を見習えば良いと思う。ただ適性のない場所で無駄なエネルギーを使ってしまうといつまでも上には登れない。

人にはそれぞれ向き不向きがある。能力の出せない分野を見抜いて捨て去る勇気、頑張らないことを見つけることが大事なのかもしれない。

北海道に帰れなかった

50年に一度の大雪で北海道に帰れなかった

 

大雪に対し百戦錬磨の新千歳空港も滑走路の除雪が追いつかず、札幌行きの飛行機が次々と欠航を決めた。僕は北海道から再び韓国へ旅立つ予定があったので、除雪作業員の頑張りに想いを馳せ、ANAの頑丈さに期待し、天候に祈ったが、結局飛行機は飛び立たなかった。

当初11時発だった便は11:50分に変わり、12:50分に変わり、やっと13:20ごろようやくエンジンをふかし始めて動き始めたかと思うと離陸せず。結局一旦飛行機から降りることになった。15時ごろ再び連絡するということだったのでただただ空港の制限区域内をぶらぶら続けた。

 

サラリーマン風の男はケータイを手に取りぺこぺこ頭を下げ、おばさんは職員にいかに札幌旅行を楽しみにしていたかを力説し、中国人は大声できれていた。キャンセルして別の便に振り替えようとしても明日の席まで満席で、天候理由の欠航なので、宿泊代も出ないことが不満らしい。 年末3連休の金曜日午前の便であったので、北海道を楽しみにしていたのに、そのすべてが台無しになってしまうであろうことに苛立ちを覚えていた人も多かったのであろう、全体的にストレスフルな空気が流れていた。

 

結局15時の連絡が16時に伸び、18時に伸び、欠航の連絡が来たのは18時半であった。

自分の便は欠航の連絡が伸びたため、明後日の便まで満席になっていて、そのことに苛立つ人も現れ、キャンセルや振り替えの手続きが長蛇の列になっていることに苛立つ人もいた。しかし自分は苛立つひとがたくさんいる状況下でも、長時間待たされたことに対して、何も感じることはなかった。天候理由なのだから、あがいても仕方がなく降参するしかないのではと。こう書くと当たり前のように思えるが、実際は苛立っている空気が場を支配していて、疲れ果てた人、心配そうな人がその空気に飲まれていた。

 

人それぞれハコがあり、状況をそのハコにインプットすると、その人の資質に応じて変換され、感情の発露としてアウトプットされる、今までそう考えていた。そのハコのキャパシティに近くと、人の目に見える形として感情が表現され、キャパシティを超えると感情が他者に向かって矢印を持ってむかっていくと。

 自分は、大雪が降った→飛行機を無理に飛ばすと危ないと思う→であるから飛ばないのは仕方ない と考え、大多数の人もおなじように考えるのが当然と思っていた。

しかし、大雪が降って飛行機が飛ばなかった→朝からずっと空港のご飯しか食べていない→どうしてくれるんだ と考える人もいる。もちろん、背景として札幌にものすごく大切な用事があるだとか、東京に泊まる場所がないだとか様々な前提はあるであろうが、それでも普通天候に降参するしかないはずだ。

 そうならないのは、人間は状況を事実のまま自分のハコにインプットしてるのではなく、インプットの前段階で状況と自分の感情を混合して自分にインプットしているのであろう。であるなら、状況や思考が先に来るのではなく、感情を先にして考えるのが正しいのかもしれない。まず考える前に直感的に感情が湧いて来て、その感情に対して人の資質に応じて整理され、行動として現れる、そちらの方がモデルとしてより適切なのかなと、そんなことを考えつつ時間を過ごしていた。