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Cnestのブログ

インターナショナルな家によるグローバルでアンビシャスな生活

まじめとは何か

就活中、「まじめ」で生きてきた人間は40社、50社受ける。彼らは「絶対内定」のような本を読み、セミナーに通い、有名企業の内定を取るべく努力する。しかし、そのやみくもな姿勢からは、有名企業への就職をゴールと考えるのみで、主体的に自分の適正を考え、自分の人生をコントロールしようとする姿勢が見えない。本当に自分のやりたいことや得意なことを「まじめ」に考えれば、消耗する体力や時間を考慮して何十社も受ける発想には至らないであろう。

主体的に生きるとは自分の主観にのっとってやりたいことに取り組むということである。主体的に生きるからこそ、自分の人生に責任を持て、納得を得られる。事なかれ主義で、客観的、中立的であろうとするほど、軸がないゆえにどっちつかずの態度をとり、知らぬうちにその時の多数の空気に流されてしまう。マスコミがいい例で、相手に安全な位置から質問をし、自分では客観性を装った意見しか述べない。それだと読者に今後進むべき道をはっきりと示せず、単なる情報伝達と、その時々によるただの感想に終始し、結果的に大勢の意見をダイレクトに拡散してしまうという事態も引き起こす。

教育面でも、長いものに巻かれ正解を探す心理を映し出している。そして今まで個性を認めない教育が、こうした正解主義や事なかれ主義を生んだ、これからは個性尊重だと唱えても、やり方がわからないゆえに結局、個性の両論併記で事なかれ主義にしかならなかった。お互いの個性をぶつけ合った先に生まれる結論こそが納得のいくものであるはずなので、正しく議論する能力が今重要な能力かもしれない。

まじめとはなにか、それは自分の大事にしていることにこだわれる人間であろう。こだわりだすと、自分の思う水準より下のものに腹が立ったり、周りから批判を浴びたりするが、それでもこだわれることこそまじめさのあかしだ。周りに流され、自分で考えて意見をもったりしない人はまじめというより、思考停止しているふまじめな人にしか見えない。

 

 

忘れる

人は忘れる。

忘れることで脳内が整理される。

全ての情報はインプット後何もしないと忘れるが、何度かアウトプットすることで

重要な情報と認識されて脳内に定着する。

アウトプットしない情報はどうでもいいと判断されて、忘却する。

重要で忘れたくないのにどうでもいいと判断されて忘れることもある。

重要かつ好きなので無意識に思い返しているような情報はほっておいても忘れないが、重要だが好きではない情報はアウトプットを意識してしないとどうでもいいと判断されて忘れてしまう。

つまりインプットとアウトプットの間で脳内に起きているプロセスに、情報の重要度はあまり関係ない。

自分で立てた目標や目的を書き記すのはなぜか

定期的に見かえすことで忘れないために

日々の記録をかきのこすのはなぜか

着地点を見据えたうえで、振り返ることができるように

時間の経過による忘却をくぐり抜けた情報は自分にとって価値があるものだというのは真だが、価値のある情報は忘却を乗り越えられるというのは真ではない。

ここ一、二週間とかを振り返っていると大事なことを忘れていたなとか、立てた目標とかを忘れてしまっていたりとかしてるので今の自分に何が大事で何が大事でないか整理する作業が必要と感じました。

面接

自分はプレゼンは得意なんだけど、面接は苦手で面接もプレゼンっぽくやれば案外うまくいくのかなーと思った。 

人前で何かを説明するのは得意なんだけれど、面接で自分のことを話すのは何か自分をどこか偽ってる気がして気後れがあり、自分を作らず日常会話っぽく話してしまう。 その結果、冗長だとか論理的でないとかいう風に見られてしまう。 

人間ってそうそう論理的に判断して行動してないと自分は思っているから、首尾一貫してる方がうさんくさいかなと思って思いつくままに話してしまうのだけれど、それでも面接の場では論理的に話さないと自分がつたわらないっぽい。

・結論を端的に最初に持ってくる。・理由をそのあとに続ける。・抽象的な話を具体例で補強する。 みたいなーことを面接でも意識しようかなーと思った次第。んまその土台の上に自信をもった話し方でパッション感を付け加えればいいのかなと。

普段緩いのが好きでぼんやりしてる分、素のままで臨むと微妙に評価悪いと感じた、久しぶりの面接の経験でした。

感情の認知と表出

どんな感情の種類があってどんな風に表情として現れるのかな

 

めちゃくちゃ怒った風に見えても全然怒ってなかったり、表情では怒っていなくても内心怒り狂っていたり

 

悲しいときに大声で泣く人よりも、泣き声や表情を抑えている方が実は悲しんでいたり

 

人は表情からその人の感情を察するけど、とりわけ日本人は表情と感情の差分が大きい気がする

また表情ひとつっても目や口角などに分けられるし、声や言語にも感情は表出する

またそこに恣意的な操作がからんだり、からまなかったり

 

ただ中国語には四声があるから声に音声の制約があって感情は乗せにくいだろうな

 

日本人は感情かくすためにほほえみまくるけど、外国人はそれほどほほえまないらしいし

 

そういう異文化間の感情の表出の違いを明らかにすることで、ノンバーバルなコミュニケーションのスタイルとかをもっとしりたい

 

 

フルグラ買った

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 3400円 一袋あたり567円 これを朝飯とおやつ代わりにしていこう

中国語は発音が難しい。

 

中国から帰ってきてから、毎日中国語を勉強している。NHK中国語講座を見つつ、参考書を用いて発音を学び、we chatというアプリで中国人に発音をチェックしてもらっている。中国の人たちは発音が違うと意味がわからないと厳しく指摘してくれ、発音の難しさを感じている。だが褒めてくれる時はとてもオーバーでそれが心地いい。子供の頃漢字や漢文を収集していたことや発音のリズムに興味惹かれることもあって、自分には中国語が向いているらしい。

 

思えば、中国はそれほど「興味がないけど近くにある国だし少し知りたい」ぐらいの温度だった。べつに中国語を履修していたわけでも、中華や辛いものが好きなわけでもない。だから中国に行くことが決まってから、少し中国語を勉強していこうかと思ったものの全くモチベが続かず結局勉強しなかった。ただ皆で海外でプロジェクトをしたい、そして北海道という地域を伝えたいという気持ちで中国へ行くことにした。

 

中国では交流漬けで、 1 国語学科との交流 2 小学生との交流 3 中共同で大学祭の開催の3つを主に行った。

僕たちはプロジェクトをやりに行ってるので、あまり外には出歩かず、準備に時間を割こうと教室の中で看板を作ったり料理を作ったりしていた。

時にはホテルにもどってからも色塗りとかポスターを作ったりしていた。

 

いろいろな問題もあった。 小学校で配ったお菓子の産地が茨城県で、放射能汚染されているのではとクレームがついたこと、

電圧の違いで着ぐるみの充電器が壊れてしまったこと、

他にも会場に電気が通らなかったり、それで電気コンロをおけなかったり、音響が壊れたり、 写真撮影を注意されたり、 天候がずっと悪かったり、

予想していたトラブルも、予想していなかったトラブルも起きた。しかし、日本で経験すると間違いなくクレームをつけたくなるようなことも、中国では、雑然とした空気感や人の多さ、土地のスケール感が渾然一体となって細かいことは気にしなくていいやという気分になってしまう。イベント会場は全く使用されていなさそうな廃墟ちっくな場所であったものの、そんなことすら気にもならなかった。

 

南昌の大学生たちはすごく親切であった。よくイメージされる「爆買い」に代表されるような我の強く自己主張をする中国人像とは少し違っていて、おおらかな人がおおかった。人見知りの人もおしゃべりな人もいて、日本人と大して変わらないような気がした。南昌からの中国人留学生からは中国人は街中でもけんかするし、きついしゃべりかたをすると聞いていたが、中国語がわからないのでそれも分からなかった。会場を閉める時、警備員のおじさんが怒鳴りちらしていたが、日本にもそのようなおじさんは意外といるし文化の差だとは思わなかった。強いて日本と違うのは直接的に表現しなければ伝わらず、回りくどい言い方はあまりしない点だろう。

やり取りの中に端的な言い方が多いと感じた。

 

大学は広く、大学の中にすべてがあった。食堂は第1~第5食堂まであり、普通の飲食店や高級レストラン、スーパーマーケット、屋台、パン屋、雑貨屋、印刷業者、散髪屋、住居、必要なものは何でも揃っていた。1元で乗れる自転車があり、それに乗ればほとんどの場所を移動できた。遠くだとめんどくさくていいかと思うことでも近くだといってみようという気になり、大学にいながら様々な食を体験できた。食は日本食のような細やかさはないが、大量の火、油、化学調味料、スパイスを用いて、豪快に作っていて、油と辛さと塩分をがっつり味わうことができた。

 

せっかく中国に来たのだからとたまに大学外へも足を運んだ。

中国人学生が親切に提案してくれることは何でもやってみようとそんなに好きでもないバーとかもいってみた。せまいところが苦手な僕にとって人口密度が多くぎゅうぎゅうになって座った座席は不快で、ぼーっとしていたが、人が減ってからやったサイコロのゲームは面白かった。僕は中国語が話せずサイコロしかやらないから、相席にいた女の子はつまらなそうに帰って行った。たばこも何回かもらった。そんなにたばこも好きではないが、『たばこをすってるとかっこいいかも』という背伸び感と相手とおなじ空間を共有したいという思いで久しぶりに吸ってみた。意外と味は悪くなかったが、シンプルで薄いテイストで余り何も感じず何回か吸ってみて飽きがきた。

 

ほかにも滕王閣という中国の名所にいったり、最終日には中国式カラオケにも行ったりした。滕王閣での建物の上から眺める南昌の景色は、観光的にイメージされる中国像で、長い歴史や伝統の蓄積から来る風流を、建物が残っていなくとも連想させた。流れる川の大きさや空の高さから、異国の大地の大きさを感じた。カラオケでは日本と中国の歌を歌い、中国の歌の情緒に直接訴えかけてくる響きを知った。

 

僕の見た中国は細かいことを気にしないスケールの大きさがある国だ。裏を返せば大ざっぱで、日本のような細く複雑なコンテクストを持った表現は通じず、わかりにくいものは避けられる。政治的な言論の自由がなく、インターネットも規制されている中国が自由であるように感じたのは、大局的に大きく考え、個人が他人のふるまいに余り気を払わないことからであろう。学内でキックボードをしている人もいたし、歌を歌っている人もいた。そもそも多種多様な個人が雑然と生きている空間でいちいち人のふるまいに気を払っていればきりがない。そうした空間で過ごした期間は僕の心に新たな「中国らしさ」という引き出しを作った。そのひきだしが正しいのかわからないが、中国人は世界中どこにでもいるので世界のどこへ行ってもまた中国と向き合うことになるであろう。

 

中国から帰ってきてから、毎日中国語を勉強し、中華料理を作っている。そのモチベーションの源泉がどこの体験に由来するのかはわからない。ただ一つ言えるのは、自分一人では何もできなかったことだ。仲間に感謝すると同時に悔しさがあった。英語が話せれば、どこでも何とかなると思っていたが、何とかならない場所がたくさんあった。相手に与えられてばかりで、自分が与えられることは少なかった。

何かを食べに行く時も、料理を作る時も日本語ができる人の手助けなしに伝えきることはできなかった。 コミュニケーションが好きで、直接伝えたかった僕にとって、それが少し悔しかった。

ブレないこと

今までの人生ふらふらと色々なことをやってきた

スポーツではサッカー、バレー、ホッケーと色々とやらせてもらったし、

学業の面でも文系なのに数3や物理をやり、大学に入ってからも理系に混じって自然科学実験を取っていたりした。法学部だけれども、法律と政治で何度も興味が揺れ動いた。

色んなことをやっている中で、結果が出せたことも出せないこともあった。サッカーやバレーをやっていた頃はチームが何度も分裂したし、大学生活で一つやりきって結果を出したいと思って始めたホッケーは対戦相手が全くいないこと、ゆるいことに勝負事が好きな自分にはうまく打ち込みきれなかった。怠惰な性格だが勉強は昔から得意であり、小中高と成績はそこそこであったが、進路への思いの弱さから大学受験は失敗し、大学に入ってからはそこまで学業に重きは置けていない。

自分がふらふらと人生経験をした中で気付いたのは、ブレることなく何かに打ち込むことはやはり大切だということだ。そして、ここでいうブレないとは、ふらふら手をださないでなく、色んなことを経験する上でも自分の中に軸を持って、その経験を集中してやりきるという意味だ。

振り返ってみると、様々な体験をして自信をつけたことで今の自分がいる。うまくいったかどうかや取り組んだ数の大小よりも、その時その時心底打ち込めたかどうかが自信に繋がっている。打ち込めるかどうかはそこにこうしたいという思いがあるかどうかにかかっている

人、相手を尊重すること

自分の大事だと思うことを大事にして、自分の行動に責任を持つこと

を大切にしつつ

自分のやることに思いを持って

10年後や20年後にあの頃は最高だったと言えるような時間を過ごしたい。

 

2017年の抱負で人にやさしくとしたが、どんな相手でもお互い対等と考えて言いづらいことでも言うこと、相手の心理を想像し変化に敏感になることが優しさであり、尊重する姿勢だと思う。だから輪に入れていない人に気づけば放置せず誘導したいし、言いにくいことはしっかり言いたいし、言われたくないことも受け入れたい。

そして、面白いと思うことはポジティブに出来るやろってスタンスでどんどんやっていきたいし、どんどん手を広げたい。

今までのうまくいかんかったことも別に後悔もないし、全力でやってうまくいかんかったり、人に迷惑かけたら胸張って謝ればいいんやし